慣れ

 高野山の高僧の方が朝に読経されるとき
 一巻の般若心経を 無心になって丁寧に
 あげられると お聞きしたことがあります。

  どうしても 般若心経などは読経することに
 慣れてしまうと いろいろなことを考えながら
 妄想いっぱいで ただ口が動いているという
 ような状態になりがちです。

  うっかり気を抜くと 明日のことを
 考えてみたり 気になっていることが思い浮かんだり、、、
  
  慣れるということは仕事になれたり
 赤ちゃんが 立つことを練習して慣れたり
 訓練して 小脳や大脳が記憶して
 オートメーションに動いてくれるように 
 なる大事な動物の機能です。
  
  ですが 読経をするにあたっては
 慣れてきて 日常の習慣となったとき
 義務感や惰性で行うことはもったいないです。  


  私は毎日30分なり一時間なり
 仏前にてお経をあげさせて
 いただいておりますが、
 慣れすぎて 惰性になるということには
 よくよく気をつけないと
 いけないなと 思っております。
 
 
  ただ お寺にご縁のある方々や
 生きとし生けるもののために読経の
 功徳が 巡りますようにと
 願いつつ、お経をあげると 無心とまでは
 いかないものの、いらぬ考えは少なくなるように思います。

  あと もちろん いろいろな悩みごとなどを
 思いつつ 読経していただくことが
 悪いわけではありません。
  そうやって頭のなかが整理されていったり
 良い知恵がでてくるという一面もあります。

  ただせっかく 朝なり夜なりに
  毎日 お参りされる習慣があるのであれば
  惰性になっているな 義務でやっていないかと
  たまに振り返っていただければと思います。

  心がけつつ 毎日すごしていれば
  観音経等々 それぞれの宗派などでも
  お経はたくさんありますが いろいろと
  生きていくにつれ 更に味わい深く
  ありがたくなっていき
  楽しくなっていくことでしょう。